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生きていてもいいですか
「生きるべきか死ぬべきか」
…シェークスピアを引用するまでもなく、「生」と「死」とは対立する概念として長らく認識されてきました。

小さい頃、ふと疑問に思ったことがあります。
「生きる」という動詞はあくまで継続する状態を表すのに対し、「死ぬ」という動詞は「生」から「死」への状態の変化、転換を意味している。
とすれば、「死ぬ」という言葉の対義語としては「生まれる」の方がより適切なのではないか。
「生きる」ことと「死ぬ」こととは、本当に対立する概念なのだろうか、と。

今もってこの疑問に明確な答えを与えることは出来ずにいるのですが、一応、自分なりには「生」と「死」に対する一定の考え方は持っています。
正確には、「生」に対するところの「死」の定義といったところでしょうか。

「死」とは、「生」を具現化するための境界である、というのがその結論です。

文明が生まれる以前の古代から、人間は病的なまでに死を恐れてきました。
近代になるまで、特に富裕階級に属する人々の不老不死への憧れは、実に様々な形で存在し続けてきたのです。
しかし…
死なないというコトは、本当に幸福なことなのでしょうか。
永遠に生き続けるというコトが、本当に人類にとっての永遠の理想なのでしょうか。

「死」への限りない恐怖の行き着く先が「不死」という夢だったのだとすれば、その真に求めるところは他でもない「生」の実感だったのではないか。
「生」を常態として日々を過ごせる人々にとっては、「生きている」ということを実感として受け止めることが非常に困難なものになります。
「死」を思い、「死」を恐怖してこそ、自分が今「生きている」ということがリアリティを帯びてくる。
「生きる」コトさえ忘れてしまった本当の「不死」とは、苦痛以外の何物でもないのかもしれません。

「生」が常態となった人々が多数を占める現代において、「死」は身近なものではなくなりつつあります。
そのためなのか、「死」を思い、「死」を考えながら生きる人たちの数はかえって増えているように思えてなりません。
いじめを苦にした自殺。
精神の不安定がもたらす自殺。
自ら「死」を選ぶ人々の本当の悲劇は、本来「生きる」ための境界として設定されるべき「死」の瞬間が、まさに「生」のど真ん中で現実になってしまったという点にあるのではないでしょうか。

もうひとつ…「生」を具象化するための試薬が「死」なのだとすれば、逆に「生」に対する疑問が「死」という結果を導くかもしれない、ということがあります。
生きていてもいいのだろうか。
生きることに意味があるのだろうか。
生きるだけの価値が自分にはあるのだろうか。
…その答えについては、あまり深く考えるべきではないのかもしれません。

ちなみに今回のタイトルは、中島みゆきさんのアルバムから引用させていただきました。
ショッキングなタイトルですが、内容的にも明るい曲が一つもないという凄い作品です(笑)
死への渇望か、生への執着か。
歌詞の解釈は、おそらく聴く人によって分かれることでしょう。
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【2007/03/09 23:35】 | 随想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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