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ひとりひとりの協奏曲(前)
 狭い部屋に流れる時間を、メトロノームが等分していく。
 モデラートよりも少し速め、といったところか――
 ほのかな木の香りに包まれながら、光一は反射的にそう思った。
 日はすでに西に傾いている。窓から注ぐ赤紫色の光は、それ自体が陰を帯びているように重苦しい。夏希は粗末な椅子に座り、譜面台とにらめっこをしていた。小さな手に握られた銀色のトランペットが、やけに大きく見える。楽譜の脇には小さなチューナーが置かれ、空気を震わす周波数を絶えず監視していた。
 繰り返される、八小節の単調なフレーズ。金属的な音は遠慮がちにくぐもり、壁に当たって虚しく収束していく。夏希の華奢な背中が、息継ぎに合わせて苦しそうに上下する。光一の口から溜め息が漏れた。声をかけずにはいられなかった。
「今日はそのくらいにしておきなよ」
「はい、でも……今日の合奏で注意された部分、まだちゃんと出来なくて」
か細い声で夏希は言った。視線はまだ音符を追っている。
「無理が一番よくないよ。まだ合宿始まったばかりだし。疲れて、明日から音が出なくなったら困るだろ?」
トランペットは唇の振動を楽器に伝えて音を出す。長時間吹いていると唇の筋肉が疲労し、音に影響が出てしまう。
「……確かにそうですね」
「明日は昼まで自由時間だから、一緒に練習しよう。今日は早く休んだ方がいい」
「はい。ありがとうございます」
微笑みながら礼を言う夏希。肩まである黒髪がさらりと揺れた。短い会話の後に聞くメトロノームは、いつにも増して耳障りだった。

 定期演奏会を一ヶ月後に控えた五月の連休、吹奏楽部は恒例の合宿を行っていた。
 場所は、学校のある市内から遠く離れた山間の宿泊施設。玄関に「青年の家」と書かれた木造の建物は、造りこそ古いが六十人の部員が寝食を共にするには十分な大きさを誇っている。付近を流れる渓流は冷たい雪解け水を運び、山々はこの時期ならではの瑞々しい精気に満ち溢れていた。
 光一は三回目となるこの合宿を楽しみにしていた。山での合宿の一番のメリットは、周囲を気にせず大きな音が出せることだ。学校ではうるさがられる金管楽器には有り難い練習場所と言えた。
 光一は今年、トランペットパートでただひとりの三年生となった。パートリーダーとなり、毎日の練習にもいっそう熱が入った。年度末には受験を控えているため、勉強とも両立しなければならない。
 たった一度の高校生活。最後の夏が、目前に迫っていた。

 一日目の練習が終わった。
 光一は食堂で夕食を摂っている。
 薄っぺらいハンバーグを咀嚼していると、夏希が練習している姿が脳裏に浮かんできた。やや遅れて、もうひとりの夏希が顔を出す。少しおどけてテンポを揺らしながら、実に楽しそうにマーチを吹き鳴らしている。入部したての頃の夏希だった。
 夏希の奏でる音は、きらきらと輝いていた。太くて芯のある直線的な音。その周りに幾重にも異なった響きが重なり、空気を躍動的に揺らしていた。音楽を奏でる喜びに満ち溢れていた。
「隣、いいか」
背後から部長の雅人の声がした。返事も聞かずにトレイを置き、隣の椅子に座る。頭の中にいた二人の夏希が、同時に消えた。
「雅人か。お疲れさん」
「おう、お疲れ」
ぶっきらぼうに言うと、雅人はご飯を貪りだした。テナーサックスのストラップを首にぶら下げたままだ。光一はそれを横目に見つつ、麦茶の入ったコップに手を伸ばす。結露で濡れたガラスの冷たさが沁みた。
「定演も近いし、コンクールも控えてるから、今のうちに言うんだけどな」
不意に箸を止め、雅人が言った。また小言が始まるな――光一は警戒した。
「後輩のこと、もっとちゃんと見てやれよ。パート練習も無駄話多いぞ。時間ないんだから集中しろよ」
光一はうんざりした。雅人の練習熱心さには、感心している。部長として、全体を率いなくてはならない立場もわかっている。だが他のパートの練習方針にまで口を出す執拗さは、どうにもやりきれなかった。
「やることはやってるつもりだけどな。ただ、余計な緊張を与えたりするのは良くないと思ってるだけなんだが」
「言うべきことは言わなくちゃ駄目だろ。パートリーダーなんだからな」
「まぁ、それはそうだな。気をつけるよ」
光一が素直に謝ると、雅人は息を吐いた。麦茶を一気に飲み干した。
「夏希にしたって、今のままじゃまずいぞ」
「あの子のことは言うな。悩んでるんだ」
 昨年のコンクールでの出来事が、生々しく思い返される。夏希は一年生ながら技術を見込まれ、短いながらもソロのあるパートを任された。夏希は嬉々として練習に励んだ。
 しかし本番での夏希の音は、期待とは程遠いものだった。極度の緊張から息が震え、音が乱れに乱れた。審査の結果、光一の高校は数年ぶりに県大会止まりとなった。
 結果発表後、夏希は泣いていた。夏希にソロを任せた当時の三年生は必死に慰めた。夏希のせいではない、部員全体のレベルが足りなかったのだ――光一も本心からそう思った。だが夏希は泣き止まなかった。以来、夏希の音は輝きを失った。
「確かに、去年のことは夏希ひとりのせいじゃない。けどミスはミスだ。それを繰り返さないようにしないと」
「ミスをしないことより、もっと大事なことがあるだろ」
光一は強い口調で言った。周りで何人かの部員が振り向いた。
「俺は、夏希に……自分の音色を取り戻して欲しいんだ」
「音色、か」
雅人は視線を落とした。同意する気持ちと反論したい思いが、麦茶に映った瞳に見え隠れする。
「お前はいい音を持っているからな。でも、誰もがそうだと決めつけないほうがいいぞ」
光一の歌うような独特の音色には、雅人も一目置いている。
「別に特別な音は求めてないさ。ただ、自分の音を削って欲しくないだけなんだ」
「そうか」
雅人は短く答えた。ひたすら自分の音色に磨きをかける光一と、より高度なテクニックと精度を求める雅人。楽器に対する姿勢は対照的ながらも、二人は互いを認め合い、高め合いながら二年以上を過ごしてきた。
「定演ラストの曲に夏希を選んだのはお前だからな。信じるさ」
空の食器を載せたトレイを持ち、雅人は立ち上がった。いつの間に食べ終わったのかと、光一は呆れた。


<続く>
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【2008/03/09 22:47】 | 小説 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ひとりひとりの協奏曲(後)
 次の朝。
 午前九時。光一はTシャツにジャージのズボンという格好で、近くを流れる小川のほとりに座っていた。
 夏希との練習の時間には、まだ少し早い。光一は川面を見つめた。透き通ったせせらぎは浅く、川底の石の形状や川魚の泳ぐ姿までもがはっきりと見て取れる。朝の眩しい陽射しに照らされ、川面が揺れながらきらきらと黄金色に光っていた。ほんの少し前まで結晶だった水の流れは、いかにも冷たそうで、清涼感に溢れた音を立てながらあくまで急ぎ足で通り過ぎていく。
 光一は立ち上がった。大きく息を吸い込んだ。山の息吹で体内が満たされていくようだった。
 楽譜を置いてトランペットを両手で持ち、唇を引き締め、マウスピースに軽くあてがう。腹筋を持ち上げて肺にめいっぱいの空気を吸い込み、ゆっくりと息を吹き込んだ。唇が細かく振動し、呼気とともに楽器を共鳴させていく。やがてそれは柔らかいB♭(シ♭)の音となって、清々しい山の空気の中に溶け込んでいった。
 一直線だった音に、自然な揺らぎが加わる。風の足音に手を振る梢。山の恵みを運ぶせせらぎの声。幾つものヴィブラートが、重なり、こだまする。冷たい金属の管は、しばし人と自然を結ぶ媒体と化していた。
 光一の指が、滑らかに動いた。バルブにより管の長さが調節され、周波数が変化する。単音は旋律となり、森のリズムとハーモニーの中でひそやかな協奏曲へと展開していく。
 やや遅れてきた夏希は、それを間近に聴いていた。
「朝から、よくそんなに吹けますね」
ジャージ姿の夏希がやや呆れて言った。光一の音が止んだ。
「来てたのか。早かったな」
「先輩こそ、早すぎですよ」
「今なら誰もいないからな。思う存分、好き勝手に吹ける」
「人に無理するなとか言っておいて……先輩も飛ばしすぎです」
苦笑する夏希。一般に朝は心肺機能が目覚めていないため、管楽器を吹くには適さない時間と言われている。
「いったい、どうやったら……そんな風にヴィブラートをかけられるんですか?」
夏希は素直に疑問を口にした。
 光一の音色の揺らぎは、あまりに自然で誰にも真似が出来ないと言われていた。むせぶように甘く、切なく、それでいていやらしさというものを微塵も感じさせない。夏希にとって、入部以来の謎だった。
「自分でもよく分からないな、よく聞かれるんだけど。吹いてると、勝手に音が揺れてくるんだ」
「嘘。そんなのだったら、誰も苦労して練習しませんよ」
夏希は唇を尖らせた。
「何のために、苦労して練習するんだ?」
唐突に切り返す光一。表情は柔らかいが、声音には真剣さが滲み出ている。夏希は一瞬口ごもった。
「それは……もっと上手くなるためです」
「どうして、もっと上手くなりたいと思う?」
「それは……」
視線を反らし、言葉を探す夏希。
「いいんだ。上手くなりたいっていうのは誰しも思うことだから。ただ」
光一はいったん言葉を切った。楽器に息を吹き込み、溜まった水分を抜く。油混じりの雫が一滴、二滴と草の上に落ちた。
「ただ、理由があると思うんだ。言葉に出来ない理由が――だから、楽器に手を伸ばす。言葉の代わりに、音を求める」
光一は上を見上げた。頭上の薄い葉の裏から太陽が覗き、葉脈が透き通って映っていた。
「なんだか、不思議なお話ですね」
夏希は曖昧な笑みを浮かべた。
「わからないよな、そんなこと言っても。もっと具体的なことを聞きたいだろうに……先輩としては失格だな」
自嘲気味に笑う光一。その耳に、でも、という声が届く。
「でも。先輩の音を聴いてると、なんだかわかるような気がします。巧く言えないけど……」
夏希は光一の目を見つめた。強い、輝きをもった視線だった。
「けど、それも音で表現すればいいこと――そうですよね?」
光一は笑顔のまま、強く頷く。涼やかな風が、二人の頭をそっと撫でて通り過ぎた。
「それじゃ、適当に始めるか。まずアタマから五小節目のとこ。最初は吹き易い音量でいいよ。じゃ、いち、に、で」
光一が左手を二拍分振ると、二人の呼吸が重なった。二つの音が、不器用に絡み合いながら森のシンフォニーに加わっていく。
 遠くで、ホトトギスが鳴いた。
 瑞々しいせせらぎの音が、メトロノームの代わりをするようにいつまでも響き続けていた。

 合宿は無事に終了した。
 瞬く間に一ヶ月が過ぎ、雨雲の去らない日々が続く。定期演奏会本番は、そんな中で行われた。
 幕間の暗いステージ上。鮮やかな照明や派手な衣装を駆使したポップなステージが終わり、いよいよ最後の演奏が始まろうとしている。
 暗闇の中、光一は右側に座る夏希の様子を窺った。夏希はトランペットを膝に乗せ、じっと息を潜めている。
だが光一の視線に気づくと、とびきりの笑顔でVサインをして見せた。光一は苦笑して暗闇に目を戻した。
 やがて、ブザーが鳴った。緞帳がうなりをあげて上昇する。幾つものライトがステージ上を照らした。光一は目を細めた。落ち着いている。自分たちの音が解放される瞬間を、呼吸を整えながらじっと待った。
 指揮台に顧問の教師が上り、一礼する。拍手が波のように押し寄せ、引いた。束の間の静寂を挟み、白く細い棒が振り上げられる。数十もの呼吸が、ひとつになる。
 音が、鳴った。
 音は、振動に過ぎない。しかしそれは、楽器を通して変換された部員たちの心の震えだった。震えは会館の空気を伝わり、客席にいる人々の鼓膜を同じ数だけ震わせた。音を通して、人々と空間は確かに共鳴していた。
 光一の耳に、幾つもの「歌」が聴こえた。
 夏希の歌が聴こえる。初めて会った頃の、純真な、輝きに満ちた歌声が。
 雅人の歌が聴こえる。上体を揺らしながら、雅人はちらりと光一を見た。その瞳は、明らかに笑顔の一部だった。
 光一も夢中で歌った。その心と身体に、いつまでも流れ続けるであろう旋律を。
 六十もの金属楽器が、ライトに照らされてきらきら輝く。旋律の流れに沿って、ゆらゆらと揺れながら――
束の間ながら、光一の脳裏にはあの山の中のせせらぎが鮮やかによみがえっていた。


<了>
【2008/03/09 22:24】 | 小説 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
かけがえなきもの
 あいつ、また猫と遊んでるな――公園を見ながら、道彦はぼんやりそう思った。
 道彦の住むアパートは、住宅街に建っている。三階の窓からは近所の様子がよく見えた。小さな公園が目の前にあるためか、たいして住民もいないこの一画には意外に多くの人がやってくる。
 道彦は、地元から少し離れた大学に通っている。授業のない日、道彦は部屋から見えるの様子をこうしてよく眺めているのだ。
 犬を連れた二人の女性が、狭い道ですれ違おうとしていた。歩みを緩め、互いに軽く挨拶をする。子犬の方が、大型犬に吠えかかる。慌ててロープを抑え、犬を叱る飼主。ゴミ袋を啄ばんでいたカラスがぱっと飛び立ち、また戻ってビニールを突っつき始める。小柄な主婦が、大型犬に引っ張られながら公園に入っていく。
 少年は相変わらず、砂場で三毛猫と遊んでいる。ピンク色のゴムボールを、前脚でころころと転がす猫。少年はしゃがみこみ、飽きもせずにそれを見ていた。少年の家で飼っているのか、よほど人に慣れているようだった。
道彦は羨ましかった。実家では猫を飼っていたが、道彦にはなつかぬままふらりと何処かへ行き、二度と戻ってこなかった。
 不意に、一陣の風が吹いた。公園の楓の梢が揺れる。中途半端な紅色に染まった木の葉を、西日が照らし出していた。
 道彦は、二ヶ月ほど前のことを思い出した。

     *     *     *

 尚美の入院を知ったのは、中学の同窓会でのことだ。
 先天性の病気を持っていることは知っていたが、同じクラスにいた頃は特に気にしたことも無かった。時々体育の授業を見学することはあったが、欠席日数も人並みで、病弱という印象はない。
 なにより、明るい性格だった。休み時間になると、親友の瑞希とどうでもいい話をしてけらけらと笑う。
 教室のベランダから見える、銀杏の並木道。アスファルトと木の葉にまぶしい陽光が照り返す。慈しむような柔らかい反射光の中で、尚美はいつも笑っていた。
「もう、自分じゃ歩けないんだ」
シャンディガフの残ったグラスを片手に、瑞希は言った。声は沈んでいた。
 病状が急激に進行したのは高校生の時。病名は、よく分からない。原因は遺伝的なものらしいが、両親は共に健康だった。現代の医学では原因、治療法ともにはっきりしないという。
「信じられないな。あんなに元気だったのに」
「私だってそう。話を聞いた時は、耳を疑ったもの」
 二次会会場のバー。テーブルではかつての同級生たちが盛り上がっていた。交互に飛び交う、近況と昔話。笑いが起こるたび、空白だった時間が埋められていく。その笑い声も、道彦の耳にはなんとなく乾いて聞こえた。
 道彦と瑞希は、カウンター席に並んで座っている。七年ぶりの再会の席に、尚美はいなかった。一次会ではそ
の理由を聞き出せず、人数の減った二次会で瑞希に近づいたのだった。
「これからどうなるんだ。寝たきりってことなのか?」
「ううん。車椅子なら大丈夫みたい。けど、それもいつまでもつか分からないみたいなの」
瑞希の声が、つれて曖昧になっていく。もうたいして中身のないグラスを、ちびちびと何度も口元に運んだ。
「会いに行くか」
不意に、道彦が言った。自分でも意外な言葉だった。瑞希も驚いた。
「本当? 辛くなるかもよ?」
「誰が」
道彦は一笑に付して、ウィスキーのグラスをあおった。氷はとっくに溶けてしまい、水の味しかしなかった。

 病院を訪れた日は、蝉の声が特にやかましかった。地元に帰ると、いつも面食らうのはミンミンゼミの大合唱だった。大学のある街とは百キロ程しか離れていないのに、こちらにくると空気までがべとついているように思える。
 六人部屋の病室は、ひんやりとしていた。鼻をつく独特の匂い――薬品なのか何なのか。小汚いブラインドが、大きな窓の光を切り刻んでいる。その細切れの影の中に、ベッドから半身を起こしている尚美の姿があった。
「お久しぶり」
尚美は、微笑を浮かべていた。背後に教室のベランダが見えるような気がした。ただ血液が変色したかと思える顔色が、あの頃の尚美とは異なっていた。
「意外ね、みっちが来てくれるなんて」
「二度と会えなくなるんじゃないかと思ってな」
「ひどいんじゃない? ホントは、二度と会いたくないと思ってたりして」
憎まれ口も、あの頃のように軽くかわしてくれる。それがかえって、道彦の胸を締めつけた。
「尚美……」
「瑞希、いつもありがとね。みっちをここに誘ったの、あなたでしょ?」
尚美の視線にかすかに非難の色が見えて、瑞希は口をつぐんだ。
「いや、俺が言い出したんだ。同窓会で会えなかったからさ」
道彦が口を挟む。尚美はただ笑顔を向けた。
 隣のベッドは空いていた。窓には風鈴が、黙ってぶら下がっている。瑞希は誰もいないベッドにどかりと腰を下ろした。道彦はパイプ椅子を引き寄せ、静かに座った。
「座るって感覚、忘れちゃったな」
尚美が呟いた。いつのまにか外を見ている。
「普段立っているから、座ると楽なのよね――最後に『座った』のって、いつだったかな」
道彦は思わず立ち上がりかけた。何も言えなかった。いったい何をしにここへ来たのかと思った。
「誰が悪いってわけじゃ、ないのよね。ただ、私がそうだったってだけ」
蝉の声が、力尽きたように止んだ。
「生まれ変わったら、ガゼルになるんだ」
尚美の声は、居たたまれないほど透き通っていた。風鈴が鳴る。病室の中で重なり合う余韻は、教会で聞くコラールのように頭に響いた。
「馬とかじゃ駄目なのか」
道彦が言う。用を成さなくなった尚美の脚を、真っ白な毛布越しについ見やった。
「馬は柵の中から出られないじゃない? ガゼルだったら、サバンナの中を何処までだって走っていけるわ」
尚美の視線が窓に向く。汚れたブラインドの隙間から、その目は遠い遠い大草原を見ているのかもしれない。道彦はそう思った。
「ライオンに食われるかもしれないぞ」
「その時は諦める、自然のルールだもん。でもこうやって思い通りに動けないまま朽ちていくよりは、ずっとマシでしょ」
 瑞希にも道彦にも、返す言葉がなかった。

     *     *     *

 地元から戻ってくると、秋だった。道彦はそんなふうに感じた。

 ある日の夕暮れ。道彦はいつものように自分の部屋から外を見ていた。
 砂場の近くに、いつもの少年がしゃがみこんでいる。今日はランドセルを背負っていた。猫はいなかった。道彦は部屋を出た。
 公園に他に人はいなかった。砂場の近く、土の見えている草むらに少年はいた。シャベルを右手に持ち、足元の穴に一心に土をかぶせている。
 道彦はそっと近づき、穴の中を覗き込んだ。半ばまで土に埋もれた、三毛猫の体が見えた。その側には、ブリキで出来たレトロなロボットの玩具が添い寝していた。
 道彦は声をかけてみた。猫はどうしたのかと聞いた。
「車に轢かれちゃった。だから、お墓つくってるんだ」
少年は「作業」を続けながら答えた。
「ロボットも一緒に葬ってあげるのかい?」
「ううん。ロボットは死なないもん。だから、今度はロボットになって欲しいんだ」
 道彦は、その場を後にした。
 夕陽が少年の背中を照らす。長く伸びた影法師を見て、道彦は思わず自分の右手に目を移した。中指の付け根にひとつ、小さな黒子があった。
【2008/02/27 23:40】 | 小説 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
『許されざる者』(5)
◇ ◆ ◇


 あの晩。新一郎はしたたかに酔っていた。満月に照らされた橋の手前にさしかかった時、橋の上にいる男女の姿が目に入った――それは奈々江と与五郎だった。
 新一郎は息を呑んだ。橋の手前で身を隠し、息を潜めて様子を窺った。
 淡い月光が降り注ぐ中、二人は親しげに言葉を交わし、そして抱き合った。
 抱擁を終え、橋の向こう、闇の中へと消えていく与五郎の後ろ姿を、名残惜しそうに見送る奈々江。
 橋を渡りその背後に歩み寄った時には既に、新一郎の理性は決壊していた。
 心地良い加減だったはずの酔いはいまや良心を毒々しく汚染し、普段からは考えられないような罵詈雑言を最愛の妻に浴びせかけたのだ。
 今まで自分に隠れ、夜毎与五郎に会いに行っていたのではないか?
 自分への愛情は見せかけだけで、本心は与五郎の方に捧げているのではないか?
「お許しください」
涙を浮かべ、その言葉だけを繰り返す奈々江に、新一郎の苛立ちは募るばかりだった。
 ――何故言い訳をしないのだ。
 思い余った与五郎は遂に、脇差を抜きつれ白刃を奈々江の細い首筋に突き付けた。
「この刃で――」
――与五郎を殺せ。
「出来ぬのなら……この場でそなたと刺し違えるまでだ」
奈々江はわっと泣き崩れた。新一郎はこんな妻を見るのは初めてだった。
 何故このようなことをしなければならないのか。
 これほど奈々江を追い詰めたところで仕方がないのではないか。
 酔いが覚め始め正気に戻りかけた時、奈々江が不意に泣き止んだ。顔を上げて夫を見据えたその眼は、新一郎が知らないもう一人の奈々江のものだった。
「与五郎さまのお子は――私の子でございます」
握り締めた刃が、奈々江の心臓に突き刺さった。
 橋の上から新一郎の体が翻り、鈍い音とともに叩きつけられたのは、その後まもなくのことだった。

◇ ◆ ◇


「あの日、俺は元々脱藩するつもりだったのだ」
右手から血を滴らせながら、与五郎は言った。
 奈々江との間に出来た子を連れ、江戸で暮らそうと決意していた。奈々江と会ったのは、最後の別れを告げるためだった。
「お前達には、幸せになってもらいたかった……俺の分までな」
与五郎は、自分が藩に居ては奈々江が幸せになれないと考えていた。あの夜、最後の抱擁を交わしながら、自分のことは忘れよと告げていたのだ。
「今にして思えば、余計なことをしたようだな」
あの日、奈々江に別れを告げようなどと思わなければ――
 新一郎はただ茫然としていた。与五郎の話など耳に入ってはいない。聞かされなくとも、そんなことは今となってはすべて分かっていた。
 ――許サナイ。
 あの夜、奈々江の体から溢れる血で文字を書いたのは、新一郎自身だったのだ。
 新一郎を狂気に駆り立てたのは、奈々江の死ではなかった。あの時、既に新一郎は……

 あれから新一郎は町をさ迷い歩き、やがていずこかへと消えた。
 真に許されざる者は誰であったか――それさえも、もう知る者はいないのだ。


<了>
【2007/04/28 22:32】 | 小説 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
『許されざる者』(4)
 体勢を崩されながらも、新一郎は構わず踏み込んで上段から斬撃を浴びせ続けた。
 その都度刀で受け流していた与五郎だが、呼吸も間合いも無視して狂ったように攻撃してくる相手にはさすがに畏怖をおぼえた。尋常な立ち合いなら決して負けるはずのない相手であっても、こうも気合いで押されては手の打ちようがない。捨て身の恐ろしさというべきであった。
 焦りを感じた与五郎は、大きく一歩下がって一度間合いを外し、隙を窺った。案の定大振りに振り下ろされた新一郎の剣先は空を切る。すかさず与五郎は踏み込み、右肩を目掛けて鋭い一撃を浴びせ掛けた。辛うじて受け止めた新一郎だが、強烈な斬撃に手が痺れ、大きくのけ反った。
 鍔ぜり合いになれば膂力の強い与五郎に分がある。じりじりと押される新一郎。
 思わず片膝をつきそうになった瞬間、新一郎は右足で咄嗟に前蹴りを食らわせ強引に与五郎を突き飛ばした。不意を打たれ尻餅をついた与五郎の頭上に、新一郎の追い撃ちの刀が閃く。
 与五郎は咄嗟に横薙ぎに剣を振るって防ごうとするが、それを紙一重でかわした新一郎は夢中で右篭手に剣を撃ち下ろした。切っ先が稲妻のように一閃し、与五郎の右手は柄を握ったまま血飛沫をあげて夜の闇の中に弾け飛んだ。

 新一郎が追い求めてきた瞬間が、遂にやってこようとしていた。
 息も絶え絶えで立つのがやっとの状態ではあったが、もはや余計な体力は必要ない。右手首を押さえてうずくまっている目の前の男の首さえあげれば、もう生きていること自体に意味が無くなるのだ。
 抜き身の刀を握ったまま大きく一度深呼吸し、気を落ち着かせる。斬り合いを終えてみれば、右手を失い両膝をついて震えている一刀流の遣い手の姿が哀れにも思えてきた。
 ――この男も、奈々江を愛していたのだ。
 そう思うと、このような場所で無惨に朽ち果てねばならない与五郎という男にも、同情する余地はあるのではないか。無論、生かしておくことは出来ないが――
「何か、言い残すことはあるか」
思いもよらなかった言葉が、新一郎の口をついて出ていた。それは死を目前にした男同士の間に流れる、ごく自然な感情であったかもしれない。
 与五郎は乱れる呼吸を整えると、ゆっくりと顔をあげた。血の気は引いていたが、それは城中で顔を合わせていた頃と変わらない、引き締まった若武者の表情であった。
 だが次の瞬間与五郎の口から発せられた言葉は、新一郎の理解を超えたものであった。
「何故……俺が奈々江を殺したと思ったのだ?」
かっと燃え上がるような怒りが、新一郎の全身に湧きあがった。
 この期に及んで何を言うのか。未練がましく奈々江に言い寄った揚句、激情に駆られて非情にもその命を奪ったのではないか!
「では何故――お前は奈々江を殺したのだ?」
一瞬、眼球が裏返ったような感覚がした。与五郎の右手から流れる鮮血が月明かりに照らされ、名状しがたい妖しげな輝きを伴って新一郎の視神経を浸食する。
 何か、脳の奥底に封印されていたただならぬ記憶が、今にも解き放たれようとしている。
 ――許サナイ。
 何故、医者の家で目を覚ました時既に、与五郎を斬らねばならないと思ったのか?
 何故、奈々江の亡骸を見ていないのに、あの鮮血の文字が脳裏に焼き付いているのか?
 何故――?

「――ああ」
新一郎は、すべてを思い出した。
「あの宵も確か、月が満ちていたな」


<続く>
【2007/04/27 18:44】 | 小説 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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