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中世の山城・楯山城と左沢
史跡・山城を生かしまちづくり 大江で全国サミット(山形新聞)
2008年10月18日 22:02

 大江町で18日、第15回全国山城サミット連絡協議会大江大会が始まった。参加者が同町の左沢楯山城跡を見学するなどして山城を生かしたまちづくりについて考えた。

 同サミットは、山城の史跡を抱える全国の市町村が持ち回りで毎年開催している。県内では大江町のほか、米沢市と上山市が同協議会に加盟している。

 今大会には全国各地の14自治体や地域史研究会などの10団体、一般住民も多数参加した。町民ふれあい会館で開かれたサミットは、同協議会会長の渡辺兵吾町長のあいさつで開幕。各地の山城紹介や文化庁文化財部記念物課の鈴木地平文部科学技官による記念講演などがあり、「地域住民とともに山城を保存・活用し、地域の誇りとしていくことが次世代への歴史遺産の継承につながる」と全国山城サミット宣言を行った。

 また、14世紀後半に築城されたと推定される左沢楯山城跡の現地見学会も開かれた。参加者は敵の攻撃を防ぐために人工的に登りにくくしている地形や建物跡が見つかっている場所など、さまざまな痕跡を見学。中世の人々の生活に思いをはせながら山城の跡を散策していた。町は現在、文化庁に同山城跡の国史跡指定を申請している。

 19日午前9時半からは、山城とまちづくりをテーマにしたシンポジウムが開かれる。

全国山城サミット連絡協議会に参加した一般住民の一人です、はい(笑)。

左沢(あてらざわ)楯山城という、全国的にはマイナーな――というか県内ですらマイナーな――城跡について、いろいろと学んで参りました。
マイナーですが、中世の山城としては全国有数の規模であるとか。
城跡のある大江町左沢という土地は、山形県のちょうどど真ん中にあたる場所で、古くは最上川の舟運で栄えた町です。
左沢楯山城は14世紀、左沢元時によって建てられたと言われています。元時という人物は、鎌倉幕府政所の初代別当であった大江広元の子孫にあたります。
左沢氏が最上義光に滅ぼされた後、城は最上氏の所有となりますが、元和八年に最上氏が改易されてまもなく廃城となってしまいました。

携帯でしょぼい写真を何枚か撮ってきましたので、紹介したいと思います。

曲輪

左沢楯山城の特徴は、小さな曲輪(くるわ)が非常にたくさん連なっているという構造にあります。
曲輪というのは坂や崖を平らにし、建物や柵を作って敵を防いだ防御施設です。
写真では分かりにくいですが、幾つもの平地が段々畑のように階層構造になっています。

「寺屋敷」

上の写真は「寺屋敷」と呼ばれている場所です。
城内で最も広い平地であり、迎賓館の役割をしたとみられる大きな建物の跡が発見されています。

矢竹(やだけ)

矢竹とは、その名のとおり矢を作る材料となった竹。
城跡の至るところに生えており、この土地に戦乱の時代があったことを忍ばせます。

「日本一公園」からの眺望

城跡である山の一角は楯山公園と呼ばれ、観光スポットとなっています。
別名はなんと「日本一公園」!
地元の住民はなんら違和感無く「日本一」と呼んでいます。
しかし、ここからの眺めは実際素晴らしい。
最上川と川沿いの町並みが一望できます。

そうそう。
全国的にも有名な『最上川舟唄』は、この町が発祥の地であることを追記しておきます。
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【2008/10/19 18:19】 | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
上杉家の城下町・米沢 (2)
引き続き、米沢市を訪れたときの写真を紹介していきます。

上杉謙信公家訓十六ヶ条
上杉謙信公家訓十六ヶ条

上杉神社にある、上杉家家訓の碑です。
上杉謙信公が遺した言葉と伝えられています。

一、心に物なき時は心広く体泰なり
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を教う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育つる
一、心に貪りなき時は人に諂うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇みある時は悔やむことなし
一、心賤しからざる時は願い好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず


いかにも謙信公らしい言葉が並んでいるように思えます。
一つ一つ読んでいくと、なんだか身が引き締まる思いがしますね……

上杉神社にある碑をもうひとつ。

霜は軍営に満ちて……

上の写真は、天正五年に能登を攻略したときに謙信公が詠んだとされる歌の歌碑です。
書き下し文を下に掲載してみます。

霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁月三更
越山併せ得たり能州の景
さもあらばあれ家郷の遠征を憶う


ダイナミックな山々の風景と、秋の風に吹かれる清涼な夜空が目に浮かぶようです。
軍略とともに文学的才能をも併せ持っていた、謙信公の一面を今に伝える石碑といえるでしょう。

さて、次は同じく米沢市にある上杉家廟所です。

上杉家廟所
上杉家廟所入口

威風堂々とたなびく『毘』と『龍』の軍旗。
ここは謙信公をはじめとする、歴代米沢藩主のお墓です。
4代上杉綱憲以降は、『忠臣蔵』で有名な吉良上野介義央の子孫が藩主の座に就いていくことになります。

上杉家の記憶を残す街、米沢。
時間があれば、またゆっくり訪れてみようかと思っています。
【2008/10/10 23:57】 | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
上杉家の城下町・米沢 (1)
上杉謙信公之像
『上杉謙信公之像』


なんだかんだ言っても、画像の少ないブログは淋しい。
ということで……
今年4月、上杉家ゆかりの地・米沢へ行ってきたときの写真を少し紹介したいと思います。
甚だ季節外れな上に、枚数も少ないのですが……

米沢市は上杉景勝の腹心であり、来年の大河ドラマの主人公として知られる直江兼続の治めていた土地です。
関ヶ原合戦後、上杉家の領土はこの米沢30万石のみに削られ、以後幕末まで上杉家の統治のもとで栄えていくことになりました。

上の謙信公の像は、上杉神社の参道沿いにあったものです。

上杉神社正面
上杉神社正面

上杉神社は米沢城址内にあり、景勝が米沢へ転封されて以来の長い歴史を持っています。
ここには謙信公のほかに、米沢藩中興の祖である上杉鷹山公も合祀されており、まさに戦国から幕末にかけての上杉家の歴史が刻み込まれた場所といえそうです。
【2008/10/08 03:03】 | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
風林火山(14)
第十七回「姫の涙」

例によって一週遅れのレビューです。
……と言っても、今回はあってもなくてもよかったのでは?と思うくらい違和感だらけのお話だったので(笑)、雑感を書くだけで失礼しようかと思います。

前回、桑原城攻めの際に由布姫の「生きたい」という訴えに触れ、山本勘助は姫の生命を絶とうという意志を翻すに致りました。それ自体は非常に良いシーンだったと思うのですが、それに続く今回の冒頭、勘助は由布姫を逃がそうとします。
ただし、諏訪の血筋は生かしておくことは出来ないため、姫としてでなく一人の女性として云々……と付け加えるわけです。その言葉を信じ、侍女を従えて落ち延びる由布姫。
しかしその後、晴信が由布姫を側室に迎えようとしているという噂を聞いた勘助は慌てて由布姫の後を追います。野武士に襲われていたところを助けられた由布姫ですが、勘助が姫を甲斐へ連れて行こうとしているのを知ると当然反発します。
考えてみれば由布姫の命を絶たねばならないというのは元々勘助の独断だったわけで、こっそり逃がすようなことをしなくても姫を生かす方法はいくらでもあったんですね。その辺り、どうも話を無駄に伸ばそうとしているのが見えて違和感をおぼえてしまったわけです。
まあ原作は文庫本一冊に納まる長さなのに対して大河ドラマは一年間ですから、そういうことは度々あっても仕方ないのですが……

他の進展としては、諏訪での戦いの戦後処理に不満を抱いた高遠頼継が反乱を起こしますが、晴信が寅王丸を旗印に出陣したためあっさり敗れます(笑)。この裏でヒサと平蔵との間に新展開があったのですが、どうも無理矢理なドラマで感情移入出来ませんでした。
他にも諏訪頼重の妻・禰々の壊れっぷりといい、今回は明らかに「泣かせ」の要素が多く、らしくないという感じがしましたね。

なんか前回までと違って批判ばっかりですが(笑)、集中して見られなかったせいでもあるかもしれません……
今後も由布姫を中心としたドラマが展開されていくのだとは思いますが、無理に話を作らなくても由布姫という人物をしっかり描けば十分面白い物語になるはずなんですね。
これからどのようにレビューを書いていけばいいかというのも、少し悩むところです。
次回は「生か死か」。由布姫の出現によって武田家中が再び揺れ動くことになります。
【2007/05/05 19:46】 | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
風林火山(13)
第十六回「運命の出会い」

武田家の謀略によって敗れた諏訪頼重。妻子と引き離され、東光寺に一時的に幽閉されます。
一方諏訪を降した武田晴信は高遠頼継との和議に臨みます。諏訪の支配と大祝の職を任せるという当初の約束を果たすよう迫る高遠ですが、晴信は先陣を切らなかった高遠の約定違反を謗り、半ば強引に諏訪の半分を武田のものとすることを承服させます。

蝉の鳴く季節の甲斐。晴信は頼重との対面を果たします。謀反を企てた高遠を誅罰するよう要請した頼重ですが、晴信は頼重の嫡子・寅王丸が家督を継いだ後に、と主張。これは頼重に諏訪に関しての権限が無いことを暗に示すものでした。頼重は激怒しますが、晴信も頼重が先に武田を裏切ったのだと怒り、怒声を返します。
結局頼重は山本勘助に寅王丸のことを託し、妻の禰々に宛てた遺書をしたため、自害して果てます。
その後大祝の頼高も自害し、ここに実質的に諏訪氏は滅亡しました。

頼重と仲睦まじかった禰々は食事も喉を通らぬほどに嘆き悲しみ、兄の晴信も心を痛めます。が、板垣信方に諏訪の残党をどうするか尋ねられると、後に憂いを残すなと厳命。このあたり、当主としての晴信の成長が表れているようです。

その後桑原城に篭る諏訪の残党を討つため、板垣と勘助が出陣。重臣たちから人ではないなどと散々言われた勘助、ここでも板垣に対し城兵の皆殺しを主張しますが、板垣はなるべく犠牲を出さない方針を取ります。
桑原城内へ攻め入った勘助たちは労せず敵を蹴散らし、平蔵との再会を経て由布姫の部屋へたどり着きました。
何故今まで自害しなかったのか?という板垣の問いに、由布姫の侍女は自分たちがお止めしていたのだと答えます。それを聞いて突如笑い出す由布姫。
「自害は嫌じゃ」
父も大祝も皆死んでいく。この世は生き地獄。しかし、だからこそ見届けたい。どんなに辛くても、生きていたい――
由布姫の強い意思に触れた勘助は、一転して姫を助けようとするのでした。

今回のレビューはかなりあらすじを端折ってみました。もう少し描写などに関して感想を書きたいのですが、なかなかうまい書き方が出来ません……
由布姫役の柴本幸さんは今回がひとつの山場の演技でしたが、雰囲気はかなり出ていたように思います。もっとも、演出に助けられた部分も大きい気はしますが……
時代劇のヒロインとしては異色のキャラクターなので難しい役どころだとは思いますが、独特の眼光を持った女優さんなので今後も期待が持てそうです。
ではまた次回です。
【2007/04/22 21:41】 | 歴史 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top↑
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